東京高等裁判所 昭和45年(ネ)867号 判決 1975年1月30日
控訴人 大橋邦彦
被控訴人 国 外一名
主文
本件各控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
事実
控訴代理人は、「原判決を取消す。被控訴人らは、控訴人に対し、各自金七二九万三一四二円及びこれに対する昭和四一年三月七日から支払ずみに至る迄の年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。」との旨の判決及び右第二項につき仮執行の宣言を求め、被控訴人国代理人及び被控訴人川上敬三は、各控訴棄却の判決を求めた。
当事者らの事実に関する陳述及び証拠の提出、援用、認否は、以下のとおり付加するほかは、原判決の事実摘示と同一である。
(控訴代理人の陳述)
一、国立新潟大学医学部附属病院脳神経外科において、昭和三八年二月一五日控訴人の疾患の診療に関して、被控訴人川上敬三ら同外科所属の医師達の検討会を開いて検討した結果、病因として脳幹部の循環不全、脊髄腫瘍または頸椎外傷による障害が考えられるとし、椎骨動脈領域の異常の有無を検査するため、控訴人に対し、椎骨動脈の撮影を、施術者を被控訴人川上敬三として翌週行うことを決定した。而して被控訴人川上敬三は右決定にもとづいて同月一八日本件椎骨動脈撮影の施術を行つたものである。
二、而して、前記検討会に参加した医師達は、その当時既に文献の上で、椎骨動脈撮影の合併症として脊髄の血管性障害を惹起した症例が報告されていたこと及び本件椎骨動脈撮影後控訴人に生じた運動機能障害、知覚機能障害、膀胱直腸障害、呼吸困難等の症状により、直ちに前脊髄動脈症候群であると的確に診断したことからみて、椎骨動脈撮影が時に合併症として脊髄動脈の乏血による脊髄障害、殊に前脊髄動脈症候群を惹起する危険性があることを熟知していたことが明らかである。
三、しかも、前記医師達は、控訴人が昭和三三年五月二八日大阪赤十字病院で受けた脊髄造影フイルム(ミエログラフイー)によって、控訴人の第三頸椎の部に陰影欠損があることを知つており、それが脊髄腫瘍によるものではないかと疑つていたから、右腫瘍によって脊髄動脈の血行が障害され、椎骨動脈撮影の合併症として前脊髄動脈症候群の発生する可能性が一層大きいことも知つていたといわなければならない。
四、更に前記医師達は、控訴人が、(1) 昭和三三年七月大阪赤十字病院において、(2) 同年八月国立京都大学医学部附属病院において、(3) 昭和三五年三月二二日国立新潟大学医学部附属病院において、(4) 同年同月二九日同病院において、それぞれ本件と同様の軽皮的直接穿刺法による椎骨動脈撮影の施術を受けたが、ことごとく失敗に終つたことを知つており、椎骨動脈撮影の施術の一般的な難しさを考慮にいれてもなお異常というべく、控訴人に特有の施術上の困難性があることを考慮すべきであつた。
五、しかるに、前記医師達は、控訴人の疾患の診療上右のごとき危険性のある椎骨動脈の撮影を必ずしも必要なものとは考えていなかつた。このことは、控訴人が国立新潟大学医学部附属病院に入院して受けた一般検査及び神経学的検査において、特に異常所見がなく、病因について確定的診断がつかないまま控訴人を退院せしめようとしていたところ、前記検討会においてにわかに右予定を変更し、「とにかく椎骨動脈撮影を試みる」ことに決定した経緯及び被控訴人川上によつて行われた本件椎骨動脈撮影は成功したにもかかわらず、そのフイルムについて、それが控訴人の疾患に関していかなる所見を示しているかにつき、前記医師達によつてなにらの検討も加えられていないことに徴して明らかである。
六、以上のとおり、被控訴人川上敬三ら国立新潟大学医学部附属病院脳神経外科医師達は、椎骨動脈撮影に伴う合併症として脊髄動脈の血行障害を惹起する危険性を知り、特に控訴人については脊髄腫瘍の疑いがあるためその危険性が一般より高く、かつ施術上の困難性があることを知りながら、しかも控訴人の疾患の診断上椎骨動脈撮影を必ずしも必要とはしていないのに、前記検討会において軽率に右施術を行うことを決定したものといわなければならない。
而して、医師たる者は、椎骨動脈撮影のごとき危険性を伴う施術を行うことを決定するに当つては、その危険性と診療上の必要性を慎重に較量し、その危険をおかしてもなおこれを行うべき診療上の必要性がある場合に限つて、かかる施術を行うことを決すべき注意義務があるといわなければならない。しかるに、前記医師達は、本件椎骨動脈撮影の決定に当り、右配慮を怠つた過失があるから、たとえ椎骨動脈撮影の施術そのものに施術者の過失が認められないとしても、右椎骨動脈撮影を決定した医師達は、右撮影により合併症を生ぜしめられた控訴人に対し、不法行為による損害賠償の義務がある。
七、ところで、前記検討会に参加した被控訴人川上敬三を含む医師達は、全員被控訴人国の被用者たる文部教官であつて、被控訴人国の設置する国立新潟大学医学部脳神経外科において教育、研究に従事するとともに、同医学部附属病院脳神経外科において医療業務に従事している者である。而して、同病院脳神経外科においては、受診者の診療に関する問題が提起されたときは、同外科所属の医師達で構成する検討会を開き、討議決定する慣行があり、同外科所属の医師達にとつて検討会に参加することは、同外科の医療業務を執行することである。従つて、右検討会の決定にもとづいてなされた本件椎骨動脈撮影の施術によつて損害を受けた控訴人に対し、被控訴人国は右検討会に参加した医師達の使用者として、損害賠償の義務がある。
八、なお、以上のとおり、前記検討会に参加した被控訴人川上敬三を含む医師達は、椎骨動脈撮影に伴う危険性及び困難性を知つていたから、右撮影の施術を行うに当つては、予め控訴人に対し、右施術に伴つて発生するおそれのある合併症の内容、施術の成功の見込み及び施術によつて得られる診療上の利点等について具体的に説明し、控訴人の施術についての承諾を得たうえでこれを行うべき義務があるといわなければならない。しかるに、被控訴人川上敬三ら前記医師達は、この点につき控訴人になにらの説明をせず、また承諾を得ることもしないで本件椎骨動脈撮影の施術をなし、控訴人に前脊髄動脈症候群を発生させたものであつて、右のごとき危険な施術を被施術者の承諾を得ないで行うことは、被施術者の身体に対する違法な侵襲として不法行為を構成するものというべきであるから、この点においても被控訴人川上敬三は不法行為者として、被控訴人国はその使用者として、控訴人に対し損害賠償の義務がある。
(被控訴人国の代理人及び被控訴人川上敬三の陳述)
一、控訴代理人の陳述にかかる前記第一項の事実は認める。
二、同第二項の事実中、昭和三八年二月一五日の検討会において椎骨動脈撮影の施術を行うことを決定したことは認めるが、その当時右検討会に参加した医師達において、椎骨動脈撮影の施術が時として前脊髄動脈症侯群の合併症を発生せしめるおそれがあることを熟知していたとの点は否認する。即ち、椎骨動脈撮影の施術が稀に合併症を起すことは右医師達も知つていたが、前脊髄動脈症候群を発生せしめたことが報告されたのは、本件施術後五年を経過した昭和四三年になつてからである。而して前脊髄動脈症候群との診断は、純粋に神経学的局所診断であつて、障害部位を示すに過ぎず、疾患の原因を明らかにしているものではないから、被控訴人川上敬三及び同僚の大塚医師が本件椎骨動脈撮影の施術後控訴人に発現した症状を前脊髄動脈症候群であると診断したことをもつて、同医師らが椎骨動脈撮影による合併症として前脊髄動脈症候群の発生する危険性があることを予め知つていたものと推論することはできない。
三、同第三項の事実中、医師達が脊髄造影フイルムによつて控訴人の第三脊椎付近に陰影欠損があることを知つていたこと及び右陰影欠損について控訴人の症状及び経過を検討した結果、第一次的に脳幹部の循還障害、第二次的に脊髄腫瘍を疑つていたことは認める。しかし、脊髄腫瘍があると椎骨動脈撮影の合併症として前脊髄動脈症候群の発生する可能性が一般の場合より大きいという点は否認する。
四、同第四項の事実中、控訴人が本件以前に四回椎骨動脈撮影の施術を受けたが、いずれも失敗に終つたことは認める。しかし、右撮影の失敗の原因が控訴人に特有の施術上の困難性にあることは否認する。右失敗の原因は、全く施術者の技術上の問題に過ぎないのであつて、これによつて控訴人に特有の施術上の困難性があり、そのために合併症を生じ易いということは有り得ない。
五、同第五項は争う。本件椎骨動脈撮影の施術を行うことは、控訴人の疾患の診断上必要不可欠のものであつた。即ち、本件椎骨動脈撮影前に控訴人の疾患として、第一次的に脳幹部の循環不全、第二次的に脊髄腫瘍、第三次的に頸椎の外傷による障害が考えられたが、特に脳幹部、即ち椎骨脳底動脈不全症が強く疑われていたのである。そして椎骨脳底動脈不全症の原因としては、(1) 椎骨脳底動脈そのものの疾患(動脈硬化、血管炎等)或いは(2) 椎骨脳底動脈の走行異常または先天的奇形などがあるが、控訴人の場合には、他の検査によつて右(1) の可能性はほぼ否定されており、(2) の疾患の可能性が残されていたところ、(2) の疾患の検査には椎骨動脈撮影によるほか方法がないのである。
本件椎骨動脈撮影後被控訴人川上敬三らが撮影に成功したフイルムの所見を検討しなかつたとの点は否認する。被控訴人川上敬三らはフイルムの所見を充分検討した結果、控訴人の椎骨脳底動脈に異常がないことを確認したものであつて、かかる場合カルテにその旨を記載することが望ましいことではあるが、異常所見が認められない場合、カルテになにらの記載をしないでおくことも珍しいことではない。
六、同第六項は争う。
七、同第七項の事実中、本件検討会に参加した医師達の過半数は、文部教官ではなく、無給の医局医である。被控訴人らが損害賠償の義務を負うとの点は争う。その余の事実は認める。
八、同第八項は争う。本件椎骨動脈撮影時より既に一〇年余を経過した現在、被控訴人川上敬三において施術に当り控訴人にどのような説明をしたか具体的には記憶していないが、控訴人の承諾を得ないで右施術を行うことは到底考えられないところであり、控訴人は本件以前にも数回椎骨動脈撮影の施術を受けており、右施術がいかなるものであるか充分知悉していたから、控訴人が右施術の内容を了解して承諾を与えたことは明らかである。
(証拠)<省略>
理由
当裁判所は、当審における新たな弁論及び証拠調の結果を斟酌するも、控訴人の本件各損害賠償の請求は失当であつて、棄却すべきものと判断するが、その理由は、原判決の理由中の説明を引用するほか、以下の説明を付加する。
控訴人は、昭和三八年二月一五日被控訴人川上敬三ら国立新潟大学医学部附属病院脳神経外科所属の医師達によつて開かれた検討会において、控訴人に対し椎骨動脈撮影の施術を行うことを決定したが、右決定に当り、右医師達は、控訴人には脊髄腫瘍の疑いがあつて、椎骨動脈撮影の施術により合併症として前脊髄動脈症侯群の発生する危険性が一般より高く、かつ控訴人は本件以前においても四回椎骨動脈撮影の施術を受けたがことごとく失敗に終つたことからみて、控訴人に特有の施術上の困難性があることを知りながら、控訴人の疾患の診断のうえに必ずしも必要ではないのに、折角入院したのだからとにかく試みてみようとの安易な考えで右施術を行うことを決定し、しかも控訴人に対して右施術に伴う危険性や施術の成功の見込などについて具体的な説明をしないで、軽率にも被控訴人川上敬三をして右施術を行わしめ、その結果控訴人に前脊髄動脈症候群の病症を生ぜしめたものであるから、たとえ被控訴人川上敬三が行つた施術そのものに過失が認められないとしても、本件椎骨動脈撮影の施術を行うことを決定した前記医師達及びその使用者である被控訴人国は、控訴人に対し不法行為による損害賠償の責任を免れない旨主張する。
そこで検討するに、昭和三八年二月一五日被控訴人川上敬三ら国立新潟大学医学部附属病院脳神経外科所属の医師達によつて開かれた検討会において、控訴人の診療に関して討議された結果、控訴人の疾患の原因として、脳幹部の循環不全、脊髄腫瘍または頸椎外傷による障害が考えられるとし、椎骨動脈領域の血行の異常の有無を検査するため、控訴人に対し、椎骨動脈の撮影を、施術者を被控訴人川上敬三と定めて翌週行うことを決定し、右決定にもとづき被控訴人川上敬三が同月一八日本件椎骨動脈撮影の施術を行つたものであることは当事者間に争いがなく、原審鑑定人工藤達之及び当審鑑定人上野正吉の各鑑定の結果(但し、当審鑑定人上野正吉の鑑定の結果についてはその一部を除く)、当審証人大塚顕の証言並びに原審及び当審における被控訴人川上敬三本人尋問の結果によれば、本件椎骨動脈撮影の施術は、三沃度化合物であるウログラフイン系の造影剤ウロコリンMを使用し、経皮的直接穿刺法と呼ばれる方法、即ち施術者が患者の頸椎横突起を指で感触し、それを目標として横突起の間を貫いている椎骨動脈に、造影剤を充たした注射器に連結している一八ゲージの注射針を直接穿刺し、椎骨動脈の血管内に造影剤を注入する方法によつたものであつて、右方法は、椎骨動脈を直接感触することができないため、施術者の経験と勘に頼るほかなく、高度の熟練を要する医療技術とされているところであり、右方法による椎骨動脈撮影の施術には、造影剤による副作用、造影剤の血管外組織への漏洩または穿刺部位からの出血などによる合併症のほか、造影剤または注射針の刺突による刺激または血管損傷のため、血管の痙攣、収縮を起こし、その部位の血行不全の合併症を生ずるおそれがあり、殊に椎骨動脈と前脊髄動脈とを連結する根動脈を損傷した場合は、前脊髄動脈の血行が障害され、運動麻痺、知覚障害等の前脊髄動脈症候群を惹起する危険性のあることが認められる。
ところで、椎骨動脈撮影のごとき医療行為は、それ自体としてみれば人体に対する有害な侵襲であるが、右施術が、その当時における医学の水準に照らし、有益な医療行為であつて、若干の危険性があるとしても、患者の疾患の診療上右危険をおかしても施術を行う必要性が認められ、かつ右施術を行うことが患者の意思に反していないと認められる場合においては、右施術の違法性が阻却され、正当医療行為となり、施術に伴う副作用または合併症に対し(施術そのものに過失が認められない限り)、医療者は責任を負わないが、過剰医療行為のごとく右要件を欠いている場合においては、たとえ施術そのものに施術者の過失が認められない場合においても、軽率に右施術を行つた点において、医療者は過失による不法行為の責任を免れないものと解するのが相当である。(この点に関する当審鑑定人上野正吉の鑑定意見は、当裁判所も基本的には正当であると考える。)
そこで、本件椎骨動脈撮影の施術について、右正当性の要件を備えているか否かにつき、更に仔細に検討する。
いずれも成立に争いのない甲第三号証、第九号証、第一〇号証、第一四及び第一五号証の各一、二、乙第一号証、第二号証の一、二、第三号証、第四号証、第五号証の一乃至四、第六号証、第八乃至第一六号証、原審鑑定人工藤達之及び当審鑑定人上野正吉の各鑑定の結果(但し、当審鑑定人上野正吉の鑑定の結果についてはその一部を除く)、原審証人工藤達之及び当審証人大塚顕の各証言並びに原審及び当審における控訴人及び被控訴人川上敬三各本人尋問の結果を総合すれば、およそ以下の事実を認めることができる。
(イ) 頭蓋内疾患の診断のための脳血管撮影(頸動脈撮影及び椎骨動脈撮影)は一九二七年モーニツツによつて始めて行われ、右施術が多くの利点を有していたことから急速に普及し、我国においても一九二九年(昭和四年)東京大学において椎骨動脈撮影が行われて以来、脳外科のある病院において広く行われるようになつた。而して、脳血管撮影に伴う副作用または合併症も造影剤の影響によるものが多く、造影剤が改良されてウログラフインなどの三沃度化合物が使用されるようになつてからは副作用または合併症の発生率が著しく減少し、それも殆ど一過性の障害であつて、永続的神経脱落症状などの後遺症を残す障害は極めて僅かであつた。因に本件で書証として提出された文献により、脳血管撮影に伴う副作用及び合併症の発生状況をみると、およそ次のとおりである。一九五八年のテニス及びシーフアーの報告(乙第八号証)によれば、一九四〇年乃至一九五六年の間に行われた脳血管撮影三一、二五五例のうち死亡七三例(〇・二三%)がみられるが、造影剤による差異が大きく、六〇%のウログラフインを使用した場合には死亡例がなく、また一九五一年乃至一九五六年の間の一二、八七〇例のうち、一過性の障害(主として不全麻痺または意識障害)を生じたもの九五例(〇・七三%)であり、永続的神経脱落症状を生じたもの三二例(〇・二四%)であつた。一九六四年のタベラス及びウツドの報告(乙第九号証)によれば、約二、〇〇〇例の脳血管撮影のうち一過性の神経学的合併症を生じた例が二・〇%あるが、重篤な症状を生じた例はなく、また約五、〇〇〇例の脳血管撮影のうち死亡したものは一例(毛細血管の閉塞による)あるに過ぎない。一九六二年のフイールドらの報告(乙第一〇号証)によれば、二三三二例の脳血管撮影のうち合併症を生じたもの四九例(二・一%)で、内訳は軽症三三例(一・四%)、重症八例(〇・三四%)及び死亡八例(〇・三四%)であつた。一九六七年の久留米大学医学部脇坂教授らの報告(乙第一六号証)によれば、昭和三七年乃至昭和四一年の間の一八六九例の脳血管撮影のうち、死亡及び重症の副作用を生じた例は一つもなく、軽症(一過性運動麻痺、一過性意識悪化、一過性痙攣、頭痛、嘔吐等)を生じたもの、六〇%ウログラフインを使用した場合において五四二例中一六例(三・〇%)及び七六%ウログラフインを使用した場合において一三二七例中九八例(七・五%)であつた。而してこれらの各研究者達は、脳血管撮影の施術が危険性が少く、しかも頭蓋内疾患の診断のために有益であつて、広く行われるべきである旨推奨している。なお、脳血管撮影の合併症として前脊髄動脈症候群の発生をみた例は、いずれも一九六八年東京大学において一例及び日赤中央病院において一例(一九六九年の報告による)あるが、本件当時においては、未だかかる症例の報告はなかつた。また、椎骨動脈撮影の方法としては、経皮的直接穿刺法のほか、より安全度の高い経上腕動脈逆行性撮影法があるが、後者の方法が我国に紹介されたのは昭和四〇年頃であつて、本件当時は未だ知られていなかつた。以上の次第で本件当時において三沃度化合物の造影剤を使用し、経皮的直接穿刺法による椎骨動脈撮影の施術は、脳幹部の血管障害の診断のうえに有益であり、かつ比較的危険性の少い医療行為として広く認められていたものということができる。
(ロ) 控訴人は、昭和二七年一二月頃自転車に乗つていて転倒し、顔面を路上に強く打ちつけたが、当時意識障害はなく、付近の病院で破傷風血清の注射を受けただけで、その後暫くは異常がなかつたが、昭和二九年頃から頸部に何ともいえないうつとうしい不快感を生じ、頭痛、脱力感を伴い、目がかすんで細い字が読めなくなり、当時大阪済生会中津病院でカリエスとの診断を受けた。その頃後頭部にぐりぐりが出来たので、昭和三〇年二月大阪中央病院でこれを摘出し、ノイリノームと判明した。同年五月大阪厚生年金病院で頸部右側方を切開して内部を検査したが異常がなく、昭和三一年八月大阪国立病院において頸椎カリエスと診断されたが、昭和三二年一月大阪赤十字病院において頸椎カリエスの疑いは否定され、同病院において物理療法(マツサージ)及び電気治療を受けた。昭和三三年五月同病院において脊髄造影撮影(ミエログラフイー)の施術を受け、第三頸椎付近に狭窄が見られ、更に椎骨動脈撮影を試みたが失敗した。同年八月京都大学医学部附属病院において再び椎骨動脈撮影を試みたが失敗し、脳室空気撮影の結果は異常なしとされた。昭和三五年三月新潟大学医学部附属病院において二回椎骨動脈撮影を試みたが、いずれも失敗に終つた。昭和三七年一〇月再度同大学医学部附属病院において診察を求め、軽い目まい、眼がかすむ、頸部から右肩にかけて凝る、舌がもつれるなどの症状を訴えた。そこで同病院では被控訴人川上敬三及び富田医師が主治医となり(富田医師は後に大塚医師と交替)、昭和三八年二月六日精密検査のため控訴人を入院させた。控訴人に対する尿便の検査、血液検査、血液化学検査、耳鼻科的検査、腰椎穿刺、心電図等の検査の結果は異常がなく、神経学的検査においても軽い眼球震盪があるほか、異常は認められなかつた。そこで同病院脳神経外科の医師達は同月一五日控訴人の診療に関する検討会を開き、控訴人の症状及び診療経過を検討した結果、控訴人の疾患の原因としては、脳幹部の循環不全、脊髄腫瘍または頸椎外傷による障害の疑いがあるが、これ迄の診療の経過に照らし、脊髄腫瘍または頸椎外傷による障害の可能性は殆どなく、脳幹部の循環不全の疑いが最も強いとの見解に達し、脳幹部即ち椎骨動脈領域の血行の異常の有無を検査するため椎骨動脈撮影の施術を行うことを決定し、その頃被控訴人川上敬三または大塚医師を通じてその旨を控訴人に伝え、控訴人の承諾を得たうえ、同月一八日被控訴人川上敬三において本件椎骨動脈撮影の施術を行つたものである。
(ハ) 被控訴人川上敬三は、昭和三一年三月国立新潟大学医学部を卒業し、昭和三二年四月医師の資格を取得し、同大学大学院医学研究科において脳外科を専攻するとともに同大学附属病院に勤務し、昭和三六年四月文部教官(助手)となつたもので、本件以前においても椎骨動脈撮影の施術を数多く手がけていて、同病院において右施術の熟達者の一人とされていたものであり、本件施術においても、一回の手技により注射針を椎骨動脈に穿刺することに成功し、正面像の撮影に当つては、レントゲン技師において撮影の時機が早過ぎ、造影剤が末梢の血管に行渡る前に撮影したため失敗したが、側面像は椎骨動脈、脳底動脈及び後大脳動脈の造影に成功したものであつて、被控訴人川上敬三らは右側面像を検討した結果、控訴人の椎骨動脈領域の血行に異常のないことが判明したものである。
およそ以上の事実を認めることができる。右認定の事実によれば、本件椎骨動脈撮影の施術は、その当時の医学の水準に照らし脳幹部即ち椎骨動脈領域における循環不全の疾患の診断のうえに有益であり、かつ危険性が少いと広く認められていた医療行為ということができるのみならず、国立新潟大学医学部附属病院脳神経外科の医師達の検討会において、控訴人の疾患として脳幹部の循環不全の疑いが最も強いとし、脳幹部における血行の異常の有無を検査するため椎骨動脈撮影の施術を行う必要性があると判断したことは相当というべきであり、右施術を行うにつき控訴人の承諾を得ていることも認められるから、本件椎骨動脈撮影の施術は正当医療行為と解すべく、右施術を行つたこと自体には病院の医師達の過失があるとする控訴人の主張は失当たるを免れない。
当審鑑定人上野正吉の鑑定の結果のうち、以上の認定、判断と牴触する部分は、当裁判所の採用しないところである。即ち、同鑑定人は、(1) 本件医師達は椎骨動脈撮影に伴う危険の存在について充分の知識をもち、または当然もつべきであつたこと(このことは、本件施術後の病症発現とともに直ちにその本態を正しく推測し得たことからも明らかである。)、(2) 本件施術の目的は脳幹部の循環障害あるいは脊髄腫瘍の存否の診断にありとしながら、絶対に必要であつて、他の手段をもつて代替できないものとまでは感じていなかつたこと(このことは、折角撮影に成功したフイルムについての所見の検討を行つた形跡が認められないことによつても明らかである。)、(3) その施術が同じ大学における前二回の失敗のほか、他の二つの医療機関においても失敗に終つており、かつまた本件では第三頸椎付近に本態不明ながらある種の異常が存在しており、従つてこの特殊な局所的素質異常の存在から、この施術に当つては未だ一度もこの種の施術を受けたことのない患者の場合と異り、より大きな慎重さが要求されること、それにも拘らず、(4) 施術前に患者(控訴人)にその発生すべき危険性を充分説明したうえで、施術の同意を得たものとはみられないこと、以上の数点を総合すれば、本件においては施術の目的に一応の医学上許容される大義名分が存し、施術自身にも重大な過誤の介在していたという証拠はなく、また事故発生後の対応処置にも欠陥とみられるものがないにも拘らず、本件施術医師に対しある程度の、即ち多少軽減された責任を負わされるのが妥当且つ己むを得ないところのものと考える、との旨の意見を鑑定書中に記載している。
しかし、三沃度化合物の造影剤を使用した場合における合併症の発生率は極めて低く、しかもその大部分は一過性の障害であり、本件と同様の前脊髄動脈症候群の発生した例が報告されたのは、本件の後六年を経過した一九六九年であることは前記のとおりであり、また当審証人大塚顕の証言及び当審における被控訴人川上敬三本人尋問の結果によれば、本件施術後控訴人に生じた病症が前脊髄動脈症候群であるとの診断は、その原因を究めるまでもなく、神経学的局所判断によつて容易になされ得るものであることが認められるので、前記鑑定人の意見中、被控訴人川上敬三らが控訴人の病症を前脊髄動脈症候群であると的確に診断したことなどを理由として、被控訴人川上敬三らが本件椎骨動脈撮影の施術に合併症として前脊髄動脈症候群の発生する危険性を熟知していたか、または当然熟知しておるべきであつたとする見解にはたやすく賛同できない。次に、前記鑑定人の意見中、本件椎骨動脈撮影の施術によつて得られたフイルムにつきなにらの検討も加えられた形跡がないので、右施術は控訴人の疾患の診療上必ずしも必要ではなかつたのではないかとの点についても、被控訴人川上敬三らが本件施術後撮影に成功した側面像につき検討した結果、異常所見がないとの判断に達したことは前記のとおりであり、当審証人大塚顕の証言及び当審における被控訴人川上敬三本人尋問の結果によれば、異常所見がない場合にはその旨をカルテに記載しないことも稀ではないことが認められるので、前記フイルムについての所見がカルテに記載されていないことをもつて、直ちに右フイルムについてなにらの検討も加えられていなかつたものということはできない。しかのみならず、前記検討会において、控訴人の症状及び診療経過が検討された結果、脊髄腫瘍及び頸椎外傷による障害の可能性は殆ど否定され、脳幹部の循環不全の疑いが強く残され、しかもその点の検査がなされていなかつたので、脳幹部の血行の異常の有無を検査するため、椎骨動脈撮影の施術を行うことが控訴人の疾患の診療上必要であつたと認められることは前記のとおりであるので、本件施術の必要性について疑問を投げかける前記鑑定人の意見もたやすく採用できない。更に、前記鑑定人の意見中、控訴人の第三頸椎付近に異常があること(大阪赤十字病院における脊髄造影撮影の結果、第三頸椎付近に陰影欠損が認められたことを指すものと思われる。)及び本件以前において四回椎骨動脈撮影の施術を受け、ことごとく失敗に終つたことからみて、控訴人に対して右施術を行うことは、一般の場合より一層慎重にすべきであつたとの点についても、本件椎骨動脈撮影の施術後控訴人に前脊髄動脈症候群が生じたことと、控訴人の脊髄造影の結果第三頸椎付近に陰影欠損が認められたこととの間になにらかの因果関係があるとの点及び控訴人に対する椎骨動脈撮影の施術の失敗が控訴人に特有の施術上の困難性によるとの点については、前記鑑定書にも首肯するに足りる説明がなく、他にこれを認めるに足りるなにらの証拠もない。却つて、控訴人の疾患として脳幹部の循環不全以外の疑いが殆ど否定されていたことは前記のとおりであり、また当審証人大塚顕の証言及び当審における被控訴人川上敬三本人尋問の結果によれば、右施術の失敗は、注射針の穿刺の不成功またはレントゲン技師のミスなど単純な技術上の問題に過ぎないと認められるので、この点に関する前記鑑定人の意見もたやすく採用し難い。最後に、本件椎骨動脈撮影の施術を行うについての控訴人の承諾の点についてみても、右施術に先ち被控訴人川上敬三または大塚医師が控訴人に対し右施術を行う旨を告げて控訴人の承諾を得ていたことは前記のとおりであり、また当審における控訴人本人尋問の結果によれば、控訴人は本件以前に既に四回椎骨動脈撮影の施術を受けていたので、右施術の目的及び内容につき施術を受ける患者として一応の知識を持つていたことが認められるところ、被控訴人川上敬三らが控訴人に対し右施術に伴うおそれのある合併症の内容及び施術の成功の見込などにつき具体的な説明を行つたことを認めるに足りる証拠はないが、前記認定のごとき椎骨動脈撮影の危険性の度合い、控訴人に対し右施術を行うことの必要性及び右施術を行うことを決定する迄の診療経過を総合勘案すれば、控訴人に対し右施術の危険性の内容及び成功の見込について具体的な説明をしなかつたとしても、控訴人の承諾が不完全であり、施術がそのために違法性を帯びるものということはできない。以上の次第で、鑑定人上野正吉の、本件施術医師に対し多少軽減された責任を負わせるのが妥当である旨の意見は採用できず、他に本件施術をもつて正当医療行為とする当裁判所の前記認定、判断を覆すに足りる証拠はない。
よつて、控訴人の本訴請求を棄却した原判決は相当であるから、民事訴訟法第三八四条第一項の規定により本件各控訴を棄却することとし、訴訟費用の負担につき同法第九五条及び第八九条の規定を適用し、主文のとおり判決する。
(裁判官 平賀健太 安達昌彦 後藤文彦)